mainte_man’s diary

『行き当たりばったりな生き方』を楽しむ。

南無阿弥アーメン、、、。

 


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おはようございます。

 

ただいま親族の急な訃報を受けお通夜に参列するべく、実家のある長崎方面へ車を走らせています。

福岡を出発したのは昼頃、普段であれば有料道路経由で片道2時間ちょっとだが、急ぐ事もなくなり敢えて下道を使ってゆっくりと走っている。

 

亡くなった親族は、妹の嫁ぎ先でキリスト教が宗派だ。

長崎では秀吉の時代から続くキリスト教布教でキリシタンが多いことは、これと言って珍しい事ではなく、仏教が宗派の私でも幼少期はミッション系の保育園に預けられ十字架を見ながら育った記憶があるほどの日常。

周囲がそんな環境だったので、いつかはこんな日も来るだろうと思いつつ、、、忘れていた矢先に訪れた今回のお通夜。

慣れ親しんだはずのキリスト教だったが葬儀となると作法の違いに内心戸惑い慌てる50年の歳月はサプライズではなくハプニングと言ったところか。

 

長年『ご愁傷さまです。』の7文字を普通に唱えてきたものに『神さまの平安がありますように。』と、数ある言葉から一番短めのものでも倍の14文字をセレクトしたが言い慣れず直ぐに言葉が出ない。

『神さまの平安が、、、。』を繰り返し覚えながら呑気に車を走らせているが、実は神父さま多忙につき下手するとお通夜が1日遅れると言う前情報が入り余裕もあった。

 

どうやら365日開いている教会の牧師さんや神父さまは、特に土・日はミサで信者を受け入れるため忙しいらしい。

 

不謹慎ではあるが、先方は週末の夜中に亡くなった事もあり手配がつきにくいらしいが、こちらは幸いな事にたまたま2連休が取れていた為、実家への挨拶も兼ねた一泊帰省が出来る事となった。

 

 

 


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地元に近づくにつれ彼岸花が目に入る。

特段珍しい訳でもなく福岡でも普通に見れるものだが、情景が変わると急に子供の頃の懐かしさが感情となって込み上げて思わず路肩に車を停めた。

 

 

 

 


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そもそも彼岸花は「あの世」を連想させる。

子供の頃テレビで見た怪奇ものには彼岸花が必ずと言って良いほど登場していた。

夏と秋の境い目に咲き物悲しさを感じる花だ。

 

 

 


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大人になった今では懐かしいだけの感情だったが、突如飛来した黒アゲハがこの日に意味ありげに思われ暫し眺めていたら、後ろに停まったレンタカーらしき車より首からカメラを下げたインバウンドの一向が降り立つ。

こんな田舎でも出会うとは思わなかったが、日本の田舎に感銘したのか私の意とは違った撮影会が始まっていた。

 

 

 

 


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もうすぐ実家のある町だ。

通っていた高校の懐かしい針葉樹は健在だった。

日暮れ前のシルエットが更に懐かしく、部活帰りに見ていた景色がシンクロしたようだった。

ゆっくり走って来たお陰でこんなところで心の浄化が出来た。

 

 

 

 

一方のお通夜は探していた神父さまが手配でき、滞りなくキリスト教の儀式で執り行われた。

 

不謹慎だが仏式とは全く違う儀式は、讃美歌や聞き慣れない説教と祈り、、、違った緊張感でエンターテイメント性を体感出来た。

 

仏式に慣れたものに安堵が訪れたのは、一般弔問客用に準備された見慣れた焼香台の存在だった。

一時の聖水の杓を上手く扱えるのか❓️十字を描けるのか❓️の不安は一気に吹き飛び、余裕の足取りで焼香台へと進む。

安堵から心の中でついつい『南無阿弥陀仏』を唱えてしまい慌てて『アーメン』の言葉が連想されたが何が正解かが解らなくなり『南無阿弥アーメン』の造語を唱えてしまう。

 

そして、いよいよ喪主への慰めの声掛けだったが、あれだけ練習したにも関わらず先の造語でテンパった脳が突如無になり、言葉なく義故知ない一礼のまま立ち去ってしまう失態を犯す。

 

式後、帰りの車中では一緒に参列したもうひとりの妹も無言一礼で済ませた事を知り、急に兄妹の連帯感が生まれて笑えた。

 

『南無阿弥アーメン。』

 

それでは、、、。